個展「この世界の片隅で(仮)」テキスト
- 夏月 岩本
- Oct 8, 2024
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24年9月30日よりIAF shop*で行われている個展「この世界の片隅で」に際して書いた、どういうことをなんとなく前提として作っているか、ということを説明しているちょっとくどすぎるかもしれないテキストをここに掲載しておきます。
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「この世界の片隅で」(副題候補:名称未設定(のコピー)・アニマのさざめき・世界との距離・Staging:2)
ナツキ(岩本夏月)は、カジュアルで断片的なスタイルのドローイングを軸に、オブジェ制作、スナップショットのような iPhone 写 真や映像、コピー機や布など、身近な物・方法を通して(の上で)制作を行う。制作を動機づけるのは、精神の微妙な領域や身体や日常 の周縁のノイジーな領域への共感―そういう曖昧で小さいものを掬い取りたいという切実さーであったり、逆にカジュアルでヘタでフ ラジャイルでナイーブな表現により開かれるデリケートなコミュニケーションへの感動であったり、あるいは裏世界的なものの可能性 の直感であったり、作品・展示の作業における皮膚感覚・リズム感覚・現実感覚との戯れであったり、ナイーブな創造力への憧れその ものであったりもするだろうか...あるいはそれは本当に造形・描画・詩的感動そのものでしかないと言えるのかもしれないが。各作品 は、何か明確な物語やコンセプトを表現するものというよりも、「物語以前の「言葉(=イメージの断片など)」や「不完全な文法(イ メージ的・知覚的遊びや裏世界的なものなど)」や「声(=体の震え、エネルギーの発散など)」」のようなものの現れと考えられる。
近年は「ドローイング」というのが、彼女の制作の哲学と共鳴しつつ方法論的示唆を与えてくれるキーワードとなっている。それは 「カジュアルさ、弱さ、もろさ、未完成さ」といったニュアンス・スタイルや日常と近接した親密でアクセシブルな制作を想起させつ つ、他方で絵がキャンバスから解放され、支持体の立体性や、空間や、描画のジェスチャーと、「イメージ」の交わりに生まれる知性や 詩的可能性を肯定する。それが彼女に微妙な声を引き出す言語を与え、現実と想像を行き来しながら身体感覚、空間・リズム感を用い た、つかみどころのない制作を可能にしていると思われる。
インスタレーション・ドキュメンテーションという段階自体も、彼女の活動の重要な実験場であったりする:それ自体においても表 現・詩的探究や創造観のステートメントが行われる。たとえばインスタレーション・ドキュメンテーションの妙により、オブジェクト やイメージの繊細な表情を引き出したり、作品や作者や創造性のオーラを引き出したりする実験をしたり、作品というエレメントを使 った空間・身体感覚的な遊び(ダンスとか歌・詩のような)をしたり、あるいは全体を通して「世界観の表現(例えば周縁的とか、 裏世界・未熟の世界とか、エネルギーの流れとかを作品からインスタレーションの段階までの有機的な生態系を通してなんとなく示唆 するというような)」を試みたりする。ここではある意味、各作品はその表現・実験の道具として扱われ、内容は半分どうでも良くなっ ているのだが、しかし一方でやはり各作品の内容とそれ以上のエレメントの交わりが重要とも言える:記憶とか欲望みたいなものとか 残像とかの「イメージ」と、精神・身体・建築構造、皮膚感覚、アニマみたいなものが宿る感覚、リアリティの感覚などの有機的な関 係を探ろうとしているとも言える。あるいはこういう諸感覚が混沌と交わる表現にこそエキサイトしてしまうのだ。
今回の IAF での展示は、一部屋では小さい作品(?)たちがただ陳列され、もう一部屋ではドローイング等の「コピー/スキャン」 が壁に貼り付けられる(ガラスの上、向こう側ににぴたりと閉じ込められたドローイング)。その半分無造作でやや暴力的なオブジェ クト・イメージの扱い、イメージからの距離感がかえってそれらのフラジャイルだが強くミステリアスな表情を引きだす。そしてやはり 展示の上で作品との距離感の遊びが行われ、皮膚感覚、表面感覚、リアリティの感覚の純粋な遊び・探り的な面が見られる。
(つまり、簡単にいうと直感的・身体的・詩的かつ全体的に受け取っていただければいいのではないか、ということかもしれない。)
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